ポンコツ夫婦のBIKE日記with Insta 360 vol.3

昨年から「ポンコツ夫婦の旅日記」など、いくつかのカテゴリー変更を実施しています。今回は、MonkeyとZoomerのカテゴリーを統合し、「ポンコツ夫婦のBIKE日記」へと変更しました。

このカテゴリーは「The Gear」ともクロスオーバーさせ、今後は自動車(JimnyとEvery Wagon)関連の投稿にも広げていく予定です。まだ計画段階ですが、楽しみにしていてください。

「BIKE日記」のメッセージは、Dr.takodemousが①漢のロマンを語る、②熱血指導をする、③いつかは二人でツーリングコースを走る、の3つです。特に②は期待できると思います。

今回のテーマは「③いつかは二人でツーリングコースを走る」です。Insta360 Ace Proを搭載し、近所の堤防をツーリングした様子を掲載していきます。

岐阜県羽島市某所に住む筆者にとって、木曽川や長良川、揖斐川の堤防は、身近でツーリングに最適な環境です。

動画には、実際に乗車している感覚を伝えるため、あえてBGMを挿入していません。ただ、自動車学校のシミュレーターのように、自分が正面を向いているのに映像が傾くことがあります。苦手な方は、フル画面を避けたり、画質を下げたりしてご覧ください。

筆者は「R60仲良し夫婦コーディネーター」になることを目指しており、このブログはそのモチベーションで続けています。

これまではiPhoneで動画や画像を撮影していましたが、WordPressへのアップロード時に容量制限の問題がありました。

そこで、よりレベルの高い撮影と編集が可能な「Insta360 Ace Pro」を導入しました。このアイテムについては、別途「The Gear」カテゴリーで詳しくご紹介しますので、お楽しみに。

尾濃大橋からスタート

vol.3では筆者の青春時代を過ごした、現在の国営木曽三川公園 138タワーパーク周辺をツーリングします。高校時代は部活動でのランニングコース、大学時代はジムニーを駆ってのオフロードや、軟式野球のグランドとして過ごした思い出の場所です。

動画の見どころは、名鉄本線を超えた辺りから見えてくる、堤防越しの木曽川の風景です。現在、サイクリングロードを施工している最中です。総延長は、60kmに達するサイクリングコースになると広報されており、他の堤防では観る事とのできないコラボレーションを期待しながら、ツーリングができます。

木曽川左岸を上流へ

前回のポンコツ夫婦のBIKE日記でもご紹介したしまたが、新濃尾大橋と同様に尾濃大橋の知名度はまだまだ低いといえます。やはり、大垣側への道路が長良川で止まっているためだと推測します。

新濃尾大橋と周辺道路との違いは、羽島側と安八側での陸地部分の道路はほぼルートが整備されており、あとは新長良橋(仮名)の着工と羽島側の若干の土地買収が残されているだけという状況です。

日頃から一宮と大垣の間で渋滞に悩まされている住民としては、早期解消を願うばかりですが、若干尾濃大橋から大垣に抜けるルートの着工が早く、完成するのではと期待を寄せています。

国営木曽三川公園 138タワーパーク

現在の国営木曽三川公園 138タワーパークは、冒頭にも記載しておりますが、筆者の青春時代である大学生時代まで、ブログでは書けないような内容も含んだ思い出の地です。旧の名称は極楽寺公園という呼ばれ方をしていました。

そんな思い出の場所も、時代と共に姿を変え、現在は新しい魅力にあふれています。

国営公園としての誕生

138タワーパークは、木曽川・長良川・揖斐川の木曽三川が有する広大な河川敷を活用し、レクリエーション需要の増大に応えるために設置された「国営木曽三川公園」の一部です。特に、上流地区の拠点として位置づけられています。

開園と名称の由来

  • 開園: 1995年(平成7年)4月29日に開園しました。
  • 名称: 公園のシンボルである「ツインアーチ138」にちなんで名付けられました。
  • タワーの高さ: タワーの高さが138mであるのは、所在地である一宮市(いち=1、のみ=3、=8)の語呂合わせに由来しています。

特徴と役割

138タワーパークは、開園当時、広大な芝生広場や、四季折々の花を楽しめる庭園、そして展望タワーを備えた施設として、地域住民や観光客に親しまれてきました。タワーからは、木曽川の雄大な流れや濃尾平野の景色を一望できます。

このように、138タワーパークは、国営木曽三川公園のプロジェクトの一環として、地域のランドマークであり、レクリエーションと景観の拠点として整備されました。

地理上の歴史

vol.3では地理上の歴史にスポットを当てて紹介します。動画をご覧になると、堤防の内側(堤防より河川側)に住居が多数見受けられると思います。この現象は、日本の一級河川の最上位を誇る、長良川や揖斐川ですら見受けることができません。何故このような堤防の内側に住居が存在するのかと言うと、地理的条件と歴史背景が関係します。vol.4ではいつも通り橋の歴史をお伝えしますので、お待ちください。

愛知県一宮市木曽川町や川島町など、木曽川沿いの堤防よりも川側に住宅がある地域の歴史的背景は、この地域の特有な地理的条件と、度重なる洪水との闘いに深く関わっています。

「堤外地」という場所

堤防よりも川側の地域は、一般的に「堤外地(ていがいち)」と呼ばれます。ここは河川が氾濫した際に水が流れ込むことが想定されている場所です。にもかかわらず、なぜそこに人々が住み、家が建てられてきたのか、その理由にはいくつかの歴史的な背景があります。

1. 「御囲い堤」と「輪中」の歴史

  • 御囲い堤(おかいづつみ): 江戸時代、徳川家康が尾張(現在の愛知県)を治水するために築かせた強固な堤防です。この堤防は、尾張側を洪水から守る一方で、対岸の美濃(現在の岐阜県)側よりも堤防の高さを低くするよう定められていました。
  • 輪中(わじゅう): このため、美濃側の人々は自分たちの集落を守るため、集落の周りを堤防で囲む「輪中」という独自の治水システムを発達させました。

一宮市木曽川町や川島町は、この治水システムの境界に位置していました。尾張側にあるこの地域は、当初は御囲い堤によって守られていましたが、時代が下るにつれて、堤防の外側、つまり川側にも住宅や田畑が広がるようになりました。

2. 「二重堤防」の建設

堤防よりも川側に住宅ができた後も、この地域はたびたび水害に見舞われました。特に、昭和初期に発生した大洪水は大きな被害をもたらしました。

この水害を教訓として、一宮市木曽川町では、在来の堤防(御囲い堤)の内側に加えて、「二重堤防」が建設されました。これにより、堤防よりも川側の住宅地を囲む形で、もう一つの堤防が築かれ、水害から地域を守ろうとする取り組みが進められました。

3. 歴史的経緯と生活圏の拡大

このような地域に住宅ができたのは、以下のような経緯が考えられます。

  • 生活の場としての利用: 昔から、河川敷は生活に必要な資材(砂利など)の採取や、畑として利用されてきました。洪水が起きても、水が引けばまた生活に戻れるという考え方がありました。
  • 土地利用の拡大: 人口が増加するにつれて、限られた土地を有効活用するために、比較的土地の値段が安価な堤外地にも住宅が建てられるようになりました。
  • 近代的な治水工事: 明治以降に行われた大規模な治水工事(明治改修など)により、洪水の頻度が減り、堤外地でも生活が可能になるという認識が広まったことも一因です。

これらの歴史的背景から、一宮市木曽川町や川島町などの堤防よりも川側に住宅がある地域は、先人たちが度重なる洪水と闘い、独自の治水システムを築きながら生活の場を確保してきた、その努力の証と言えるでしょう。

筆者のツーリングは、相変わらず一人のショートコースが中心です。Redkabagonさんが公道デビューできるその日まで、この身近なコースを走り込み、技術と経験を磨いていきます。この日記を通して、二人の成長をぜひ見届けてください。

次回は国営木曽三川公園 138タワーパークから川島までのバイク日記を投稿予定としています。お楽しみに。

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